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「亡くなられた方の命の向かう先」

〜死と対面して、今、苦しんでおられる全ての方へ〜

 2011年3月11日。東日本大震災で多くの尊い命が犠牲になりました。亡くなられた方が今も浮かばれないままいるのではないかと、生き残った自分を責める方。生き延びたけれど、生きる意味を見失ってしまった方。震災には直接被害を受けなかったが、予測不可能な未来に不安を抱いている方・・・。日本中の方が今まで続いていたものが一瞬で消されてしまったという現実を前に、何とも言えない不安を抱いて生活しています。


 帰村の声掛けを始めるなど、復興に向けて動き出していますが、将来の不安が全て解消するまでには残念ながら未だ至っていません。放射能の脅威に怯えながらも、明日に向かい、不安とともに暮らしておられるご家庭が多数あるのが現実です。

 これから私たちはどのように生きていけばよいのでしょうか。明日への希望をどう繋いでいけばよいのでしょうか。

 私が、以前、お聞きした御法話の中にそのヒントがあるように思います。僭越ながら、その御法話をご紹介させていただきたく存じます。仏教が受け継いできた知慧が、明日を生きる糧の一つになれば幸いです。




 〜梯實圓和上のご法話〜

 
「私に死は存在しない。生まれて行くのです。」

 お釈迦様が覚りを開かれたといいますが、何を見つけられたのでしょうか。


 
一般的に、「死んだらおしまい」という考え方が存在しますが、それならば生きているということは、死に向かって、空しく時間待ちをしていることになります。それは生きているといえるのでしょうか。

 お釈迦様は「生老病死の概念規定を勝手に決めつけて、それによって苦しみが生まれてくる。それを迷いと言い、煩悩ともいう」と言われています。

 <生きること>と<死ぬこと>を私たちは当然のように、自然の法則のように見ています。ですが、<死>というものを超えた領域があるとお釈迦様は覚られたのですから、<死>という概念を否定されたのでした。

 
仏教は、迷いの世界で作り上げられた概念規定を超えること、<生>と<死>を一望のもとに見通すことができる精神の領域を開くことを目的としています。それを覚りといいます。

 
つまり、お釈迦様が覚りを開かれたというのは、<生きていること>も素晴らしいことだ、しかし<死ぬこと>も素晴らしいことだと言い切れる境地を見つけられたということなのです。だったら<生>を捨てて<死>を求めることもない。逆に、<生>に執着して<死>を拒絶することもない。<生きていること>に無限の意味を見出しながら生き、<死ぬこと>にも素晴らしい意味があることを見出されたのでした。

 
また言いかえると、<死>とは覚りを開く有難いご縁であるわけです。それに気付くと、<生きること>も<死ぬこと>も素晴らしいことと味わえます。それが浄土の世界です。<死>ではないのです。生まれて行くのです。言いかえれば、臨終はあるが<死>は存在しないと言えます。
                     ・・・引用ここまで

 
東日本大震災から1年。未だに行方不明の方もおられます。
しかし、亡くなられた方の命はそこに眠っておられるのではなく、私を包んで離さない永遠の命となって私を護って下さっているのではないでしょうか。そして、私こそが迷っている存在であることに気付かせようとしてくれているのではないでしょうか。

 その私を救うのが仏陀なのです。南無阿弥陀仏のお念仏とは、亡くなられた方の命が溶け込んで生き続けているのです。だから、南無阿弥陀仏と称えると、故人の声が、姿が思い出されるのです。それは私がイメージしたのではなく、永遠の命が顕れて下さった証なのです。時間も場所も関係なく、私が何処にいても、南無阿弥陀仏が私を包んで下さっていることが素晴らしい人生なのです。<生>も<死>も超えるとは、永遠の命に出遭っている私も、死なない永遠の命なのだと気付くことです。合掌