興元寺上帯   
 

興元寺法話2011.4

私が気づかない 私を支える大きなはたらきがあります



 3月27日に行いました「親鸞さまを聞く勉強会」で「縁結び」についてお話をさせて頂きました。それと絡めて、今回は書かせて頂きたいと思います。

 仏教では、“縁”は「私を動かす働き」を指します。一般的に、種(原因)があれば花(結果)が咲くといいますが、因果関係だけでは、仏教は説きません。因果の間に縁があるから、因果関係は成立するのだと味わいます。


種が花に成るには、「栄養」「水」「太陽光線」「発芽に適した気温」と、多くの直接的に働きかける縁によって、花が咲きます。これを「()(りき)(ぞう)(じょう)(えん)」といいます。しかし、それだけでは不十分です。カラスがやってきて種を食べると花は咲きません。また、洪水や天変地異が起きたら、流されてしまいます。つまり花が咲くということは、「カラスがやってこなかった」、「邪魔するものがなかった」という縁があったのです。これを「()(りき)(ぞう)(じょう)(えん)」といいます。何も悪いことが起きなかったということは、護られているということなのです。

私達はつい、「良いことが何も起きないなあ」と愚痴りますが、それこそ、悪いことが何も起きなかったというすばらしい働き(縁)が存在するのです。つまり、私が今ここに存在しているということ自体、無数の縁が結ばれた結果なのです。それを「有難い」と味わう人の心には「御蔭様」という気持ちが自ずと生まれてくるのでしょう。一方、「全ては自分がしてきた行為の結果だ」と味わう心には、「有難い」という気持ちや「御蔭様」という気持ちは沸いてこず、成功したとしても、何か虚無感が漂っているのではないでしょうか。寂しいことです。

また、当然、努力したけど、望む結果が得られなかったり、努力しなかったけど、望む結果が苦労なく得られたということもあります。そこに望む結果を導く“縁”があったか否かにより、もたらされる結果は異なります。ただ、例え、望む結果が得られなかったとしても、その過程で行った努力には尊い価値があるのだと思います。無数の縁に結ばれて、こんな私でさえ、努力することの素晴らしさに目を向けられるようになりました。本当に有難いことです。合掌



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