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〜北條家の歴史〜        
                    北條鱗

 はじまりは伊勢盛時(北條早雲・早雲庵宗瑞)通称・伊勢新九郎、いわゆる後北條氏、小田原北條氏です。居城は小田原城でした。

 豊臣秀吉との戦いで落城し、逃げ延びた北條氏が、1600年の関が原の戦いの時に、徳川方について有力武将を倒し、その功績を認められて、河内藩1万5千石を賜りました。場所は、現在の大阪府大東市北条から野崎一帯です。城はなく、野崎観音で有名な、福聚山慈眼寺(曹洞宗)に本陣があったそうです。

 主に生駒山中腹の本陣から大阪城の豊臣家を監視していたと云われています。

 1757年(寶暦7年)に、西本願寺から重役職として招聘され、河内藩北條家が建立したのが慈眼寺です。本家は明治以後男爵でした。
水洗い前の阿弥陀如来







〜慈眼山興元寺の歴史〜
1718年(享保3年)
  1月

村西家、釈法順により興元寺開基
1757年(寶暦7年)
  4月

北條家、釈西順により慈眼寺開基
1864年(元治元年)  蛤御門の変が起こる
火災により興元寺の本堂と阿弥陀如来が消失する
慈眼寺から受け継いだ阿弥陀如来も戦火に遭い、手指が焼けてしまうが、寺侍が担いで逃げ、何とか難を逃れる。その時に、寺侍が何者かに切り付けられて、 死を覚悟するが、阿弥陀如来が身代わりとなられて切られ、九死に一生を得たという逸話が残されている。2009年に阿弥陀如来を水洗いするまで、その跡が残っていた。


 1880年(明治13年) 村西家(興元寺)が第10代で絶えたため、第21代本願寺門主、明如上人の命で慈眼寺と興元寺が合併し、興元寺の名を残す(当時、慈眼寺の御門徒様117人、興元寺の御門徒様158人で、興元寺の方が多かったため)

  当時の慈眼寺北條家は代々、ご門主様が東京、大阪等の各地を視察される間、本願寺の朝夕のお勤め等の法要行事の責任者として本願寺に勤めていました。
慈眼寺の御門徒様の多くが、京都以外に住まわれていました。
これは、御門徒様が西本願寺にお参りした時に代表代行の北條家と親しくなったからです。
昭和まで興元寺と慈眼寺の表札が掲げてありました。


 1953年(昭和28年)

宗教法人法の改正により、慈眼寺の表札は無くし、日光山興元寺を現在の慈眼山興元寺と改名して再出発する。

2008年(平成21年)
 12月


京都市下京区西若松町1)から京都市八瀬へ興元寺を移転する。

2009年(平成21年)
  4月


京都市八瀬の地で落慶法要を行う

2009年(平成21年)
 10月
阿弥陀如来2)を水洗いする




旧興元寺  旧興元寺2
 1)下京区西若松町にあった興元寺

 阿弥陀様の洗濯  興元寺の阿弥陀様1  興元寺の阿弥陀様2
  2)いつもは見えない部分も見ることができました